ニシの生活

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「議論のレッスン」(福澤一吉著) を読んだ感想

福澤 一吉著「議論のレッスン」を読みましたので勉強になったポイントと感想を書きます。

議論と言うとディスカッションやディベートといったように口頭で意見を戦わせるものをイメージしていましたが、この本で解説しているのは話す書くに関係なく、主張したいこととその根拠の関係(論証)についてでした。

勉強になったポイント

論証とは

ある「根拠」をもとに「主張」を行うことを「論証」と言うようです。「〇〇(根拠)だから✕✕(主張/結論)である」という形です。
また、根拠から主張を導くときの前提条件のようなものを「論拠」というようです。
例を挙げると、「昨日はカレーを食べたから(根拠)今日はラーメンを食べよう(主張)」という 論証があるとします。この論証は人によって通じる場合と通じない場合があります。
カレーが大好きで「毎日カレーを食べてもいい」と思っている人にとってはこの論証が正しいとは感じないでしょう。
この論証が正しいと思う人は、心の中で「昨日食べたものと同じものを普通は食べない」と思っているのです。つまり、「昨日食べたものと同じものを普通は食べない」 というのがこの論証にとっての「論拠」になっているわけです。
論拠が会話をしている人たちの中で共有されていなければ論証が成り立たないのです。 このように論拠は論証にとって不可欠なものであるにも関わらず、大抵はすでに共有されているものと思われて明示されないことが多いのです。 これが誤解を生む原因となります。

論拠によって「経験的事実」の意味付けが変わる

経験的事実とは その名の通り事実やデータなどのことで、論証において根拠となるような部分のことです。
論拠によって経験的事実の意味づけが変わるとはどういうことでしょう。
この本で例として挙げられているのは次のようなことです。
ある犯罪で取り調べを受けている男性がいるとします。男性が犯罪を自白しました。
そこで次のような論証を行いました。「男性が自白したので彼は有罪だ。」
一見何も問題がないように思うかもしれませんが、この論証に置ける論拠となっているのは「男性は真実を語っている」ということです。男性が真実を語っていると言うことを前提条件として認識している場合はこの論証が正しいことになります。
では全く違う論拠を仮定したらどうなるでしょうか。「 男性は刑事に自白を強要されている」という論拠を仮定した場合、「男性が犯罪を自白した」という根拠からは「男性は潔白である」 という結論が導かれる可能性もあります。
このように論拠によって導かれる結論がまったく違ったものになることがあるということです。

感想

新聞記事は完璧ではない

「議論のレッスン」では、新聞の社説を題材として取り上げ、 そこで行われている論証の構造を分析しています。
そこで取り上げた新聞の社説は構造がとても複雑になっており分かりづらいものでした。
プロが書いた文章であるわけですから、 論理的で分かりやすくなっているかと思っていましたが、分析してみると案外そうでもないというのが驚きでした。
また国会討論も題材として分析しており、よりすぐりの国会議員でさえ議論スキルがおぼつかないということがわかりました。

今こそ議論のスキルを磨くべき

日本では議論のスキルを誰からも教わらないのでこのような事態になっているようです。
それだけに正しい議論のルールを知ってスキルを身につけていれば仕事上かなり強いと思います。
話す書くの基本となる議論のスキルを磨くべきだと強く感じました。